ゆきよちゃん|心の縄をほどく専門家からの手紙

ほどく、ゆるむ、自分に還る。 空海の智慧とともに綴る、あなたの心を自由にするメッセージ

「こうあるべき」という鎖をほどく日――家族の姿に観る、心の蓮華|空海の教えと共に #13

はじめに ―― 心を縛る「こうあるべき」

人は知らない間に、たくさんの「こうあるべき」を身につけていきます。

ちゃんとしていなければ。 迷惑をかけてはいけない。 弱音を吐いてはいけない。

その思い込みはやがて、恐れや不安、怒りとなり、 自分の心を静かに縛りはじめます。

そしてその鎖が、 「生きにくさ」というかたちで人生に滲み出していくのです。

けれど本来、 「こうあるべき」という絶対的な正解など、 どこにも存在しないのかもしれません。

父と弟と、温泉へ向かった日

父の家の水道管が破裂しました。

お風呂に入れず困っているだろうと思い、 父と弟、そして息子を連れて温泉へ向かいました。

道中、息子は自分のお小遣いで、 弟(息子から見れば叔父)のためにスッパムーチョを買っていました。

弟はそれを食べながら、 「今日はこれしか食べてない」と言いました。

近くのうどん屋へ立ち寄り、 父と弟と息子で食卓を囲みました。

父は、入れ歯が割れても使い続けるような人。 自分を大切にすることが、どこか苦手な人です。

弟は昨年末、借金苦から実家に戻りました。 77歳の父が、今も家計を支えています。

弟は父の買った酒を飲み、 用意された食事を食べる。

生前、母は父の愚痴を弟に話し続けていました。 その影響もあるのか、弟は父を嫌っているように見えます。

けれど、わたしは思うのです。

弟は父を嫌っているのではなく、 自分を嫌っているのではないか と。

人は、自分を許せないとき、 外側に怒りを向けます。

でも本当は逆なのです。

自分を許せない感情があるから、 人を許せなくなる。 愛せなくなる。

その日、弟は 「父と一緒にお風呂には入りたくない」と言い、 温泉には入らず家に帰りました。

空海の教え ―― 心はもともと蓮華のかたち

一切の凡夫の心処は、未だ自ら了すること能わずといえども、 然もその上に自らちべん然として八葉あり。合蓮華の形の如し。 但し、この心を観照し、それをして開敷せしめよ。 (『法華経開題』)

わたしたちは、自分の心をまだ知りません。 けれどその心は、もともと蓮のつぼみの形をしている。

閉じているように見えても、 壊れているのではない。

ただ、まだ開いていないだけ。

空海が示したのは、 「直す」ことでも、「変える」ことでもありません。

必要なのは、観照すること

ただ、自分の心を静かに観ること。

観るだけで、心はひらく

弟も。 父も。 そして、わたしも。

「こうあるべき」という鎖の中で、 もがいているだけなのかもしれません。

自分を責め、 許せず、 外側に怒りを向けながら。

けれど本当は、 誰の心も最初から美しい蓮華のかたちをしています。

無理にこじ開けなくていい。 誰かに開いてもらわなくていい。

ただ、

「ああ、いま、こう感じているんだね」

と、自分の心をそっと観ること。

そのとき蓮華は、 自然に、自分の力でひらいていく。

わたしは、そう信じています。

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こうあるべき」という鎖をほどく日――家族の姿に観る、心の蓮華|空海の教えと共に #13

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