はじめに
鳥取砂丘に立った瞬間、広がる景色に息をのみました。
果てしなく続く砂の波。
その頂「馬の背」に登ると、視界が一気に開けて海の青が飛び込んできます。
私はそこで手を広げて「大祓詞」を唱えました。
潮風が強く吹きつけ、砂が頬に当たるたびに、何か古いものが削ぎ落とされていくようでした。
立って唱え、座って唱え、寝転んで唱え。 ただ声に出すだけなのに、胸の奥に溜まっていた澱(おり)がほどけていく。
三度目には、視界がぱっと明るくなり、世界そのものが一段透明度を増したように感じました。
その後、不思議なことにトイレが近くなり、下痢まで出て…。
「これ、浄化だね」と子どもたちと顔を見合わせて笑いました。
身体が不要なものを手放すことで、心の余分な重荷も一緒に流れていったのです。
⸻
道端で出会ったお爺さん
砂丘に向かう途中、道端で困っているお爺さんを見かけました。
散歩に出たものの足が痛くなり、家に戻れなくなっていたそうです。
「砂丘まで乗せてほしい」と言われましたが、よくよく話すと目的地はご自宅。
そこでジュースを渡し、家まで送り届けると、お爺さんはとても嬉しそうに微笑んでくれました。
それは特別な行為ではなく、ただ「その時必要なことをした」だけ。
でも、心のどこかで思いました。 ——こうした小さな行動も祈りの延長なのだ、と。
鳥取砂丘で唱えた言葉と、道端でのやり取りは、一見別々のことに思える。
でも、どちらも「誰かの心を軽くする」という点で同じ根っこにつながっていました。
⸻
数字がもたらすシンクロ
今回の旅では、数字のシンクロにも何度も驚かされました。
出雲から琵琶湖を経て軽井沢へ向かう途中、私の車の前に2台の車が入り込みました。
どちらもナンバーは「777」。
「777777じゃん!」と娘と声をあげて笑いました。 まるで祝福されているかのように。
その直後、なぜか友人から思いがけず2万円が戻ってきたのです。
偶然といえば偶然ですが、心の中にははっきりと「導かれている」という感覚がありました。
数字や出来事は、時に宇宙からのメッセージのように降りてきます。
「安心して進んでいいよ」というサインを、私たちは日常の中で何度も受け取っているのかもしれません。
⸻
光と闇を抱きしめるとき
かつて私は「闇は避けるもの」だと思っていました。 でも最近は、そうではないと感じています。
光があるから闇がある。
善と悪も、正義と不正も、見る角度が変わればすぐに入れ替わってしまう。
闇を否定するのではなく、光と同じように抱きしめてみる。
そのとき、心は大きな安心感に包まれるのです。
「統合」とは、特別な力ではなく、光と闇を分け隔てなく受け入れること。
鳥取砂丘の風の中で、私はその感覚を確かに体で味わいました。
⸻
子どもたちと共に
砂の中に足を埋めて遊ぶ息子。 「ママ、砂ってあったかいね」と笑うその声が、風にのって響きました。
娘は貝殻を拾っては「見て!」と嬉しそうに手のひらを差し出してきます。
彼らの笑顔を見ながら思いました。
大切なのは「今ここ」にいること。
未来の不安でもなく、過去の後悔でもなく。
ただ、この瞬間に風を感じ、砂を踏みしめ、笑い合うこと。
その時間こそが、何より尊い祈りなのだと。
⸻
まとめ
光も闇もひとつに抱きしめるとき、心は統合へと導かれます。
砂丘で祈りを重ね、道端でお爺さんを助け、子どもたちと笑い合った。 そのすべてが、私にとって「祈りの形」でした。
次回は、その歩みの中で少しずつ聞こえてくる「心の声」についてお話ししたいと思います。
⸻
読んでくださってありがとうございます 🌿 最後にあなたにとって“光と闇”はどんな姿をしていますか?